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特集2011年9月20日

堀口篤子 国際金融公社(IFC) グローバルナレッジオフィス 統括責任者~第39回 世銀スタッフの横顔インタビュー

まるで彼女のパワーがそのまま表れたかのような、生き生きとした笑顔が印象的だった堀口さんのインタビュー。「今の自分の生活は、子どもが2人いて平凡で淡々としてます」という彼女だが、興味の幅が広く、何にでも挑戦するフットワークの軽さと、人との出会いを楽しむ彼女の生き方は、聞いているこちらが引き込まれるような魅力を放っていた。

Atsuko Horiguchi

The World Bank

兵庫県神戸出身。ジョンズ・ホプキンス大学にて国際関係学士号取得。同大学高等国際問題研究大学院ライシャワー東アジア研究所、メリルリンチ証券勤務を経て、ハーバード大学ケネディー・スクールにて公共政策学修士課程を修了。卒業後、世界銀行にヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)で入行し、中国の金融セクター、財務総局、ウォルフェンソン元総裁補佐官等を歴任。その後、国際金融公社 (IFC)へ移り、アフリカ地域の金融市場の新規ビジネス業務の統括責任者を務めた後、2010年より現職。世銀日本人会の元代表幹事。クラシックピアノ、ロックバンド、アシュタンガヨガ、おもてなし(料理好き)、読書、編み物など多様な趣味を持つ。世銀職員と結婚し、一男一女の母。

国際公務員、それともピアニスト?

父の仕事で、2歳から7歳までブラジル、小学校2年生から4年生までニューヨークに住んでいました。ある日遠足でニューヨークの国連本部に行ったとき、世界中の国旗が並んでいるのを見てすごく感銘を受けたんです。貧困や紛争などの問題に一丸となって取り組むという国連の活動内容がビジュアルで伝わってきた気がして。食事を残すたびに「アフリカやアジアには満足に食べられない子どもたちがいるのよ」と言うような親だったこともあって、小さい頃から貧困や環境、女性の人権問題に関してとても興味を持っていました。その頃のアメリカは1960年代の終わり。ヒッピーや学生運動、ベトナム戦争など、社会的にも色々な問題を抱えていたのを子ども心に感じていて、将来は国際機関に勤められたらいいな、と漠然と考えていましたね。小学校4年生のときにガレージ・セールをやって、売り上げの14ドルをユニセフに募金したことを覚えているのですが、すでに幼少の頃から国際貢献への意識があったのかもしれません。

芸術にとても興味があって、小学生のときにニューヨークのジュリアード学院の付属の学校に毎週土曜に通って、音楽の勉強をしていました。一時はピアノの道というのも考えたのですが、日本の音大に進むとなると人生のすべてを音楽に捧げなくちゃならない。音大に行くならテニスのラケットを持つのもダメ、と小学校高学年のときにピアノの先生に言われてあきらめました。

ジャーナリストに憧れたアメリカでの大学時代

小学校5年生の時に日本に帰国しました。私立の女子中学校に受かったものの暗記中心の受験教育に抵抗を感じて、個人の創造性を尊重するアメリカにいずれ戻りたいと思いました。このような思いから、高校から神戸のカナディアン・アカデミーへ転校し、その後アメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ進学しました。

大学では国際関係学を勉強し、一時は国際的なジャーナリストになりたいと思っていました。卒業後、初めて働いたのが同大学の高等国際問題研究大学院というところだったのですが、ある縁で読売新聞の方と知り合う機会があって、一時期コラムを書かせていただいたりしたこともありました。時代は1980年代半ばで、まさに『JAPAN AS NO.1』の頃。ちょうど今の中国のように、世界的に日本に対する興味が非常に高かったんです。

投資銀行への就職から大学院留学へ

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ジャーナリズムの分野で就職活動もしたのですが、ビザがなかなか下りず、ジャーナリストへの道は厳しいものでした。そんなときに、メリルリンチ証券の投資銀行部門に採用されました。1年ほどニューヨーク本社で働いた後に、メリルリンチの株を東証に上場させるプロジェクトを担当することになり、東京転勤に。ニューヨークと東京で計4年働いた貯金で大学院に留学することにしたんです。

ハーバード大学のケネディ・スクールで公共政策の修士号を取ったのですが、カリキュラムに経済のクラスが入っていて、途上国のマクロ政策に関して学ぶコースを選択しました。その時の教授の教え方が素晴らしくて、頭の中で何かが急に繋がっていくような感じでした。そして翌年、教授のティーチングアシスタントを務めました。その教授は今、世銀のアフリカ地域総局のチーフエコノミストになっています。1年目と2年目の間の夏休みには、教授の紹介で、世銀でインターンをしたのですが、そのときに初めてヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)について知り、世銀の方にもぜひ受けてみなさいと言っていただいて。せっかくだから試してみるか、と受けてみたのが、世銀に入ったきっかけになりますね(※現在は応募時点で既に修士号を取得していることがYPP応募の条件となっているが、当時は違った)。

世銀では大学院で学んだことをすぐに活用できました。大学では教養を学びましたが、大学院は「プロフェッショナルスクール」(専門職大学院)という呼び名の通り、仕事のための実用的なスキルを学べるところ。例えば、現在問題になっている財政危機に関して、課題分析を行い、解決策のオプション、そしてそれに対する提案を3ページでまとめてくること、というような宿題が出るんです。経済の基礎であるミクロやマクロ、統計学などに関しても徹底的に叩き込まれたので、そういう面では世銀に入ったときも戸惑わずにすみました。

世界銀行での仕事と中国縦断旅行

世銀に入って初めて配属された部署では、ガーナの証券市場の開発を担当しました。具体的には政府との交渉や、融資する前の審査など。首都のアクラに1ヶ月丸々いたんですが、驚いたのはガーナの証券市場。メリルリンチで東証上場を担当していたから証券市場は見慣れていたんですが、ガーナでは黒板があって、チョークで上場企業の名前がずらっと書いてあるんです。ディーラーが2〜3人いて、消しては書いてを繰り返して。あの光景はとても印象的でした。次に配属になった部署ではハンガリーのマクロ経済の財政改革について担当しました。ハンガリーの財務省と中央銀行の3-5ヵ年計画に対し、インフレ率などに関してアドバイスをし、エコノミストや税務関係の専門家なども含めたチームでブタペストに滞在しました。

その後も金融セクターに関するさまざまな部署で仕事をしましたが、部署や地域によって本当に雰囲気も仕事も色々ですね。それぞれの顧客の文化を世銀本部でも引き継いでいるというか・・・。例えば、世銀の財務総局にしばらくいたのですが、その部署で私は世銀が途上国に出す融資をフランスとスイスの市場で調達する業務を担当していました。そこは本当にマーケットカルチャーといった雰囲気で、利率が下がったらマーケットに行こうと、決断がとにかく早いのです。

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そんなとき、仕事にも燃えつきて1年間お休みをもらったんです。フォトジャーナリストをしている友達が中国を1人で自転車で旅するという話を聞いて「私も連れてって!」と。半分冗談のつもりが本当に実行することになって、北京から香港まで6ヶ月かけて中国製の自転車で縦断したんです。正直に言って、あんな旅だと事前にわかっていたら行きませんでした。たくさんの荷物を準備したのですが、運びきれないからほとんど捨てて。最後は下着2枚、Tシャツ2枚、靴下2枚とかそんな感じでしたね(笑)。水もトイレもないような貧しい村で、肥溜めに落ちたこともありました。水がないから洗えないんですよ!半泣き状態でしたね。その時は村の人がバケツに川の水を汲んできてくれましたけど。世銀の仕事でも中国を担当したことはありましたが、世銀の出張では決して見られない生の中国に触れることができたのはよかったと思っています。

旅が終わった後、ニューヨークで、ある美術館のパーティーで(当時)次期世銀総裁のジェームズ・ウォルフェンソンに偶然会ったんです。「あなたは今度総裁になる方ですね」って話しかけたら「君は誰なんだ?」と言われて。世銀の職員だけれど今は休職中で、中国縦断の体験を本にまとめていると答えたら、一度オフィスに来なさいと言われ、訪ねたのが面接のようになって、総裁補佐の話をいただいたんです。

総裁補佐の仕事で見えたもの、仕事と家庭との両立

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総裁補佐の仕事をしたのは1995年から1997年。総裁の出張、スピーチ、打ち合わせのすべての準備、シニアマネージメントとの調整や、ブリーフィングの手直しなど。デリケートな仕事ですけれど、総裁について世界中を見ることができたこと、そして各国の大統領や総理大臣などとの面会にすべて立ち会う機会を持てたこと。これは本当にかけがえのない貴重な体験でしたね。世界のトップレベルのやりとりを間近で見ることで、ますます視野が広がったことをありがたく感じています。

世銀でマクロの開発の仕事を経験した後、今度はミクロの開発に挑戦したいと思い、IFCに移りました。私はメリルリンチ時代の経験があったのでその当時IFCに移ることができたんですが、今はMBAを持っていないと厳しいと思います。IFCの場合、フィールドでキャリアを積むということが前提。家庭を持っている方だと大変ですよね。私も、今は2人の子どもがいる関係で希望により内部の仕事を担当させてもらっていますが、プロジェクトの担当を続けるなら、やっぱり海外に行くことが必須です。現在はナレッジマネジメントといって、組織の中で知識をどのように保存・普及させるかに関する仕事をしています。近年、特にIFCでスタッフが急増して新しい人材がたくさんフィールドにいます。その中でどのようにノウハウを浸透させるか、知的なリーダーシップをどのように進めていくかといったことに関して、戦略やシステム、プログラムを考えています。こういったことは、リスク管理のためにも、世銀グループの評判を保つためにも非常に重要なんです。

仕事と家庭の両立についてですが、環境的には年々よくなってきましたね。世銀にもIFCにも搾乳室があって、産休から戻ってきた母親は1日2〜3回そこに行って母乳を出して家に持って帰るんです。家庭を持っている女性も増えましたし、私の上司は子どもの学校行事で早退することなどについても寛容ですね。「夕食は家族みんなで食べる」というのが私の黄金ルールなので、午後6時にはよほどのことがない限りオフィスを出ます。子どもが寝てから仕事をすることはしょっちゅうですが。

趣味としてはピアノとヨガは長年続けていて、それが自分を仕事のストレスから救ってくれていると思っているんです。自分の野心はパーソナルライフとキャリアを両立することだと思っています。パーソナルライフで自分を充電し直してこそ、いい仕事ができると信じています。

開発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ

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若い人たちに言いたいのは、できるだけ自分の目で途上国を見て、体で感じて欲しいということ。若いうちにフィールドでの経験をしておくことはきっと糧になるはずです。今は国際機関の現地オフィスのインターンやNGOのボランティア情報など、いくらでもウェブ上で調べられる時代。自分で調べて動くことが何よりも大事です。途上国に留学するというのもいいかもしれないですね。そして、身につけて欲しいのは柔軟性と強さ。これからの人生、思い通りにいかないことも、コントロールできないこともきっとあると思います。その時に気を落とさず、次の機会を探すことが大事。日本は今まで世界に金銭的な貢献はしてきたけれど、これからは人材や知的な貢献が求められていると思います。まずは自分が何がしたいのかをよく考えて、興味を持ったことには何でもトライしてみてくださいね。

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