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首都高速道路公団 高速道路(羽田-横浜間) ~ 日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト

東京オリンピック成功に貢献した首都高速計画


第二次大戦前には700万人だった東京都の人口は、終戦時の1945年こそ500万人まで減少したものの、その後の経済成長により急速に増加し、1965年には1000万人を超えるに至りました。同時に自動車保有台数も毎年5万台近いペースで増え続け、1960年には50万台を突破しました。その結果、交通の混雑も非常な勢いで増大し、近い将来、交通需要が交通容量を超えて麻痺状態に陥ると懸念されていました。「車より歩くほうが早い」事態を回避するため、首都高速道路の計画が急ピッチで進み、1957年、建設省は「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定し、その2年後に首都高速道路公団が設立されました。公団設立当時の事業計画は、1959年~1965年の間に首都高速1~8号線(延長約71km)の整備を目標としており、総事業費は高速道路914億円、駐車場50億円の計964億円でした。

公団設立の1959年、東京の道路整備をさらに後押しする出来事がありました。1959年5月26日の国際オリンピック委員会総会において、5年後の1964年に東京で第18回オリンピック大会が開催されることが決まったのです。これにより、競技の運営のみならず、施設、道路、宿泊施設などのすべてを、限られた期間内に整備することが急務となりました。特に道路は、当時の渋滞状況とオリンピック(参加国70か国、選手役員約1万人、外国からの観光客約3万人と推定)の開催で、局地的な大混乱が予想されました。実際、その頃は渋滞のために羽田空港から代々木の競技場まで車で2時間以上かかる状況でした。しかし、オリンピックまでの5年間では用地買収の時間も十分にないため大部分を高架にすることが考えられました。

さらに急伸する交通需要に追いつくため、首都高速1号線の延伸(横浜-羽田間)が決定され、首都高速事業は初めて東京都外にまで延びることになりました。オリンピック関連道路として活躍した首都高速1号線を、羽田空港から横浜までさらに延ばすこの建設に、首都高速道路公団は初めて、世界銀行からの貸出を受けます。1962年当時、東京と横浜の間は毎日100万人が移動していましたが、渋滞が激しくそのうち道路利用者は10分の1にとどまっていました。世界銀行は、東京-横浜間が日本のなかで重要な役割を果たしていることを重視し貸出を決定しました。東京オリンピックが大成功に終わった2ヶ月後の1964年12月、横浜-羽田間高速道路の建設に対する世銀の貸出2500億ドルが調印されました。

 

プロジェクトデータ

調印日:1964年12月23日
受益企業:首都高速道路公団
対象事業:羽田-横浜間高速道路
貸出額:2500万米ドル