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将来を考えるきっかけになった高校での葛藤
小学5年生までは日本で育ちましたが、その後は高校までアメリカでした。スティーブ・ジョブスの出身校であるカリフォルニアの公立高校に通っていたのですが、移民の子もいれば大金持ちの子もいる、貧富の差が激しいところでしたね。自分もマイノリティだったので、いろんなところで腹が立ったりもどかしい思いをしたりすることが多々ありました。そのとき以来「社会的な格差を是正したい」「弱い立場の人を力づけたい」と思うようになり、後に政策を学ぶきっかけになったと思います。
大学は日本に戻り、帰国子女入試で慶應義塾大学総合政策学部(SFC)に入りました。施設も整っているし、やりたい研究は何でもできるような恵まれた環境ではあったんですが、基礎から体系的な勉強をしたかった僕にとっては当てが外れた部分もあり、アメリカの大学に編入を決めました。
インドで感化されたのは、漱石の『坊っちゃん』!?
ワシントン大学では政治学を学びました。この頃は、まだ何を勉強したいか具体的に固まっていない時期でしたね。ただ、政治に限らず、社会全般の仕組みというか、どうしたらより良い社会が築けるのかという、とても漠然的な関心はありました。さらに大学院に進もうと決めてロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)で社会政策・計画について勉強しました。
2001年に大学院を卒業したのですが、就職活動はNGOを含め80ぐらいの団体に応募したのですが、なかなか上手くいきませんでした。自分なりに理由を分析し、開発の世界に足を踏み入れるには、やはり途上国での経験が必要であると判断した結果、「自分への投資としてどこかで1年間経験を積めば将来きっと役に立つだろう」と、大学院で斡旋していたインドでのインターンに行くことを決めたんです。
ところが、いざインドに行ってみて愕然としました。自分に求められていたのは、早い話が汚職の手伝いだったんです。実は、インドに行く前に父親から夏目漱石の『坊っちゃん』をもらって飛行機の中で読んだ直後だったので、変な正義感が涌いてしまって。都会から田舎に行って、間違った考え方をしている人たちに立ち向かう主人公と、自分が重なったんでしょうね。これから自分のようなインターン生が何人か来るというので、「ここは素晴らしいところだとメールするよ」と言って連絡先を入手し、その人たちに「考え直した方がいい」というメールを送った上に、各大学に「ここは学生に斡旋するな」と告げ口をして、その日の夜行バスでそこを去りました(笑)。
開発の世界でキャリアを積む
そして採用が決まり、働くことになったのがFASID(国際開発高等教育機構)です。主な仕事内容は調査研究のサポート。例えば「財政支援に日本がどう対処するか」という戦略を組み立てる上で、ウェブ上に氾濫している情報をまとめて検索しやすくしたり、その分野の専門家に要約して記事を書いてもらったりと、皆が議論をしやすくするための下準備を担当していました。議事録を取ることもあり、キャリアのスタートとしては非常に勉強になる仕事内容でしたね。
ただその仕事は1年間の期限つきだったんです。それであちこち応募して、次に勤務したのがニカラグア大使館の専門調査員。コスタリカでスペイン語は日常会話ぐらいだったら何とか話せるレベルにはなっていたのですが、やはり行ったばかりのときは大変でした。ここでは3年間を過ごしたのですが、よかったのは非常に小さい大使館だったので、何でも自分でやらなければいけなかったということでしょうか。まだ駆け出しだった僕が、一国の大臣や副大臣に会えるんですから。
日本はニカラグア政府に対し、ODAの一環で国外からの原材料や資機材などの購入のための資金を供与していて、その資金で鉄鋼、合成樹脂や肥料などを購入したニカラグア政府が、地元企業にその物資を売るんです(注)。そのようにして政府が得た利益は開発のために使わなくてはならない、という決まりがあるので、あちこちの省庁から「このように使いたい」と提案されたプロジェクトをモニタリングしたり、外務省と協議して開発計画書を作成したりしました。
世界銀行へ、そして現在の仕事内容
世界銀行のYPPという制度に応募したのは、確かユニセフ2年目のときでしょうか。採用され、2009年から世界銀行で働いています。最初は業務政策局(Operations Policy and Country Services: OPCS)の結果事務局という部署にいました。世界銀行の全セクターのプロジェクトについて、どういう結果を出したかを統計やレポートで報告するところです。例えば国際会議などがあると、「この分野において、過去5年間の成果が知りたい」というような要請が内部から来て統計を出します。世銀について理解が深まるという一面もありましたが、わりと機械的な作業が多い部署でしたね。
現在はヨーロッパ・中央アジア地域総局で社会開発専門官として勤務しています。OPCSには自動的に配属されましたが、今の部署には2年目になって、自分の希望を出して採用されました。このあたりの仕組みをわかりやすく言えば、プロ野球のドラフト制度ということになるでしょうか。部署側からの指名と自らの逆指名ができて、お互いの希望がマッチすればめでたく採用、ということになります。ただ、エコノミストなどの場合はひょっとしたら違うのかもしれませんが、「ここは予算がない」「ここは今年は採用しない」など、部署ごとにさまざまな事情があって、正直こちらで自由に部署を選べるような余裕はあまりありませんでした。
期限に間に合わせるためにはチームワークが重要
実感として、世銀は忙しいですね。実はグルジアへの出張から帰ってきたばかりなんですが、雪が降る中、1日20時間ぐらい働いていた気がします。プロジェクトの開始日時は決まっているので、そこから逆算すると「今日までに上司の承認をもらわなければいけない」、「この日までに政府側の合意をもらわなければいけない」など、クリアすべき仕事が山積みで。そういう意味では、いろいろなスペシャリストが力を合わせる"チームワーク"こそがこの仕事の醍醐味と言えるかもしれません。現在1才の子どもがいるのですが、出張が多いこともあって一緒に過ごす時間が少なく、寂しい気持ちもありますね。せめてワシントンDCにいる時だけは子どもと過ごす時間を確保するために、7時台には家に帰って家族と一緒に夕食をとり、子どもを寝かしつけてからまた仕事をしています。それでも子どもと過ごせる時間は限られています。
これからの予定
それまではあまり考えていなかったんですが、2011年に震災があってから最終的には日本に帰りたい、と思うようになりました。もちろんもっとキャリアを積んで、スペシャリストとしてきちんと通用するようになったらですが。それまでは、世銀で自分の分野の専門性を極めたり、新しいプロジェクトを立ち上げるようなことができたらいいなと考えています。先日、震災後初めて茨城の実家に帰ったんです。めちゃくちゃになった部屋を整理していたら、子どもの頃の写真や、ゲームソフトのドラゴンクエスト3が出てきました。で、ふと思ったんですよね。今の仕事をしているのは、ドラクエがきっかけだったのかもしれないって。ドラクエ3は実世界がテーマで、ゲームの中で世界のあちこちを旅して、各地で色々な難題に挑んで克服していくうちに、こういう生き方ができたらいいなと潜在的に脳にインプットされたんじゃないかと(笑)。未だに出張に行くと、「ドラクエの世界そのままだな」と思うことがありますね。人間の原点なんて、案外そんなものかもしれません。
開発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ
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