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特集2023年12月21日

谷山奈津実(たにやま なつみ) 世界銀行 東アフリカ地域総局 交通 ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)~第61回 世銀スタッフの横顔インタビュー

気候変動、交通インフラ、紛争。3つのキーワードをつなげ、開発の中でも最先端の気候変動の影響を考慮した交通インフラ分野を東アフリカ地域で切り開いていく谷山さん。学生時代に追及した好きなことを通じて得た経験や出会いを転機に、時に「積みたい経験を積む」と明確な意識を持って夢を実現し、「0から1にする」仕事を楽しんでいます。

Natsumi Taniyama

谷山奈津実(たにやま なつみ) 世界銀行 東アフリカ地域総局 交通 ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)
2022年10月入行。ワシントン本部にて勤務後、2023年3月よりナイロビ駐在。東アフリカ地域の交通の気候変動担当として、案件形成時の気候変動適応・緩和対応や国別気候・開発報告書(CCDR)、紛争影響下での案件実施等に従事。入行前は、株式会社 東芝(現:東芝インフラシステムズ株式会社)にて法人営業、国際協力機構(JICA)本部フィリピン課にてミンダナオ島紛争影響地域の防災・交通案件、移行支援等を担当。ジョージタウン外交政策大学院にて開発経済修士号を取得。国際基督教大学(ICU)(開発学専攻)在学時にフィリピン大学交換留学。

すべては海外への興味から始まった

高校3年の時に、ノルウェーに1年交換留学で初めて海外に行き、そこで演劇グループを通じて難民の人たちと友達になったことが、開発への道に進む大きなきっかけになりました。ノルウェーは難民や移民への支援が手厚いのですが、ソマリア、アフガニスタン、リベリアなどから、自分よりも年下の人々が、15歳前後で難民として生き抜こうとしていました。自分は海外経験が初めてで、ノルウェー語もわからず、アジア人も街に自分一人だけ、というマイノリティの立場に苦労していましたが、友人たちの逞しさに衝撃を受け、彼らの国を身近に感じ、そして難民になってしまった問題に興味を持ちました。

フィールドで好きなことをひたすら追求した大学時代

ノルウェーでは欧米文化と日本の違いの大きさを感じ、「自分はアジア人である」と強く意識するようになりました。そこで国際基督教大学(ICU)では開発学を学びつつ、アジア諸国でフィールド経験を積むことにしました。少数民族に関心があり、タイのカレン族が住む山際の村で1週間のボランティアをしたのですが、その文化度の高さと清潔感のある生活に非常に驚きました。次に夏休みを利用してインドネシアで2カ月間滞在し、村でボランティア活動をしました。インドネシアの村ではゴミが水路に放置されるなど処理方法が大きな環境問題になっていましたが公共による対策が課題で、公共サービスとコミュニティ開発について興味を持ちました。また大学では、小学校などに出向いて演劇をするサークルに所属していて、海外の子供たちにも公演していました。そこでボランティア先のインドネシアの村の人たちや大学生に交渉し、原稿をインドネシア語へ翻訳してもらって練習し、村の小学校などでインドネシア語で公演しました。

さらに大学3年の時にはフィリピン大学に1年間の交換留学に行きました。最初は大学内の寮生活だったものの、それでは現地の生活は体験できないと考え、地元生徒が住むような地域に住もうと自分で家を探して住みました。フィリピン大学は所得に関係なく優秀であれば入学できるため、学生の住む地域も様々で、家を探す過程でスラム街に案内されたりもしました。

インターンシップ先のNGOでも、スラムに住んでいる人たちのための雇用プロジェクトに関わり、彼らになぜスラムに住んでいるか聞いてみました。彼らはもともと田舎から都市に出てきたものの、低所得であるために、低価格な交通手段ですら利用することができないために職場近くに住む必要があり、そうすると住めるのは都市圏の中でもスラム街という選択肢になっていました。またスラムは政府による立ち退きが多いのですが、代わりの家を郊外に設置したとしても、移住させられた人たちは、職場から遠くなってしまい、交通費を払えないために結局また数カ月でそこを出て、別のスラム街に住みつくことになってしまっていました。都市交通の課題として、低所得者が仕事にアクセスでき、リーズナブルな交通機関がつながっているところに家がないと、一度スラムを出ても、スラムに戻ってきてしまうというのを学生時代に気づくことができました。

さらに旅行が大好きで、フィリピン留学中は、マニラからジープや船やバスなどを乗り継いで島々を南下し、レイテ島まで、大学の友人の家を訪ねながら旅をしたりしました。ところが、その旅の直後に、自分が旅して歩いた道に台風ヨランダが到来し、レイテ島やサマール島に大きな被害が出ました。陸路や空港にも被害が出たことで、フィリピンの島々をつなぐ交通網が寸断されてしまったんです。その際、インターンシップをしていたNGOの支部が、機能不全になった通常ルートではなく、被害地よりも南の島から北上するという代替ルートを検討し、物資を運ぶオペレーションを担当しました。それをマニラで見守ったことで、将来の仕事である、災害への適応の実体験をすることになりました。

交通インフラへの興味

フィリピン大学を走るジプニー
フィリピン大学を走るジプニー。通学手段として日常的に乗車していた。
いずれ将来は国際機関で働きたいとは思っていましたが、もともと公的機関よりも民間企業に興味があったこともあり、企業で働いた経験があった方が良いのではないかと感じていました。フィリピン大学は経団連から奨学金をもらって留学しましたが、応募時の志望動機にも、「貧困層のニーズを開拓して、ビジネスを通じて解決しながら、日本企業にも貢献したい」と書いていたほどです。

そんな中、フィリピン留学中の地元に溶け込んだ生活では、ジプニーやトライキシル(三輪バイク)のような交通手段をよく利用したのですが、その排気ガスと煙の量に驚き、開発の中でも交通インフラ分野に興味を持つきっかけになりました。そこで帰国後の就職活動では、エントリーシートに「質の良い環境対策がなされたインフラビジネスを提案するような海外営業をしたい」と書いて、期待しながら新卒で株式会社 東芝(現:東芝インフラシステムズ株式会社)に就職しました。優秀な先輩方に恵まれて育てていただき、仕事は楽しかったです。

開発の世界を目指して

入社後の配属先は、24時間自動化したインフラ向けシステムの法人営業だったのですが、希望した海外ではなく国内営業で、縦割りの組織で5〜10年は修行しないと海外経験は難しい状況でした。しかし国際機関での開発の道に進みたい場合、世界銀行スタッフの横顔を読んだり、国連JPOの体験談や説明会でのお話を聞くと、開発の職務経験がないと厳しいと感じました。

この頃には将来は世界銀行に就職したいと思っていたのですが、このようなタイムスパンでは夢は叶えられないと思い、転職活動をはじめたところ、JICAのフィリピン課の契約ポストで「交通・防災の経験があり、職歴が3年以上」という仕事の募集がありました。ちょうど東芝のインフラ系の職務経験が3年ほどであり、フィリピンでの留学・インターンの経験が活かせるため、自分にあった仕事だと思って応募したところ、とんとん拍子で採用されました。東芝では正規職だったにも関わらず希望しない部署になってしまったため、JICAでは3年という短期の契約社員であっても、「積みたい経験を積む」ことを目標にしました。

紛争地域でのインフラ支援を経験

ミンダナオ道路ネットワーク案件の審査ミッション
ミンダナオ道路ネットワーク案件の審査ミッション。暫定自治政府と中央政府間の調整に立ち会う。
2017年11月から勤務開始となったJICAでは、マニラではなくミンダナオ担当でした。フィリピン南部のミンダナオ島にはイスラム教徒が住む紛争地域があり、2014年に和平合意がなされたばかりでしたが、暫定自治政府が発足することになり、自治権を拡大した政府を立ち上げるという重要な時期に仕事をすることになったんですね。

具体的には暫定政府が正式な自治政府を設立するまでの移行期間において、インフラやガバナンスを支援する仕事で、フィリピンという国の文脈を理解した上で、ミンダナオという特定地域の理解が求められました。また貧困・開発に加えて、初めて紛争地域という状況を経験し、のめり込みました。JICAはミンダナオでのプレゼンスが高く、インフラ投資を進め、政府要人もJICA幹部と面会していたので、その準備資料を作成したりしました。

その際、ミンダナオ地域の道路ネットワーク設置に対して200億円を融資するという案件を担当したことが、後に生きてくることになります。その案件では、1年半をかけたミッションの中でフィージビリティスタディや審査を行い、JICAや日本政府との交渉・調整役を務めました。この案件は、先住民が住む地域を含む保護された土地に新規道路を建設するというもので、独自の文化が壊されるような開発プロジェクトはリスクが高すぎるので難しいのではないかとの見方が融資側にはありました。しかし、実際には現地では道路がないために貧困率が高くなっており、先住民側の道路建設へのニーズは高かったんです。この現地に住む人たちの意見を吸い上げ、リスクを低減するための提案を行い、JICA内でも交渉した結果、承認を得ることができました。この紛争地域におけるインフラ支援の経験が、アフリカ経験がないにも関わらず採用された、その後の世界銀行でのケニア北部・ソマリアなど紛争地域での支援というポジションにつながりました。

交通×気候変動×紛争という新しい分野へ

ケニア北東部で建設中の道路視察
ケニア北東部で建設中の道路視察
JICA勤務を終えたのち、2020年の8月にはコロナの最中に渡米し、ジョージタウン外交政策大学院で開発経済を勉強しました。ジョージタウン外交政策大学院を選んだ理由は、世界銀行に近いことも大きかったですが、紛争分野に強いこと、また教授にも元世界銀行職員の方がいることでした。そして在学中、卒業の2カ月前に、JPOでまさに直感で自分にぴったりだと思うTORを見つけて応募し、採用されました。

現在、5カ月間のワシントンDC勤務を経て、2023年3月より、世界銀行東アフリカ地域総局の交通の気候変動担当官としてナイロビに勤務しています。この分野には「適応」と「緩和」の2つの分野があり、適応とは「災害が起こった時に交通インフラにどの程度被害があるかを予測し、将来起こり得る被害に対してどう対応するか」、緩和とは「不必要な二酸化炭素を出さない交通インフラの策定」に対応する業務です。アフリカに関しては、二酸化炭素の排出量は少ないにもかかわらず、気候変動の影響で大雨・洪水や旱魃・熱波が起きるなど既に大きな被害が出ており、1つ目の災害対策の方が切実な問題です。例えば今年はエル・ニーニョの影響でケニア北部やソマリアでは水没する地域が出ているほどです。このため、交通量が多く物流の拠点を繋ぐ回廊など、災害による寸断コストの大きい回廊を分析して対策すべき箇所を洗い出し、インフラ維持に対応する政府担当官のキャパシティを強化して、各国の課題を洗い出してよりインフラの維持力を高めるのを支援しています。

一方、緩和に関しては、「環境に配慮した成長」がキーワード。交通はエネルギーの次に二酸化炭素の排出量が多いため、将来的なアプローチとしては、公共交通の利用を促し、渋滞を起こさず車を使わない交通インフラを構築し、水素燃料やバイオ燃料、電気自動車などの代替エネルギーによる交通手段を整えるという動きがあります。世界的にも模索しながら進んでいる非常に新しい成長分野で、現地政府も興味を示し、具体化しつつあります。今のポジションに採用されたのも、交通におけるアナリティクスに特化した人材が世界銀行にあまりいなかったからです。担当地域は、ケニア、ザンビア、ソマリアなどです。

何もないところから作り出す楽しさ

モガディシュの世界銀行オフィスにてソマリア政府と面談
モガディシュの世界銀行オフィスにてソマリア政府と面談
気候変動に配慮した交通インフラという分野は、世界的にも確立されておらず、模索しながら進んでいく世界です。またソマリアの交通分野では、世界銀行による初めての融資案件が進んでいますが、これから交通セクターが発展していくという段階で、政府の方たちと政策や計画を話し合い、案件を発掘して作っていくところに、とてもやりがいを感じます。学生時代に何も基盤のないインドネシアでの演劇公演を実現させた時も、ミンダナオで新しく政府が設立された時もそうでしたが、「0から1にする仕事」が楽しいと感じます。

これは同時にチャレンジでもあります。新しい分野を開拓しているため、前例もありません。そんな中、ソマリアなどでは課題への対処が切実で、災害対応は今まさに必要な分野です。相手政府側もニーズが膨大にあって大変やる気があり、どう応えていくかが課題です。緩和に関しても、先進国でもまだ模索しながら普及しつつある先進技術の電気自動車や水素自動車などをアフリカにいきなり実践的に導入する、という点はチャレンジだとも言えます。

クライアントは欧米文化ではない

日本人の強みがあるとすれば、聞き上手であることがその1つです。欧米文化は自分の意見をはっきり述べることが重視され、それは世界銀行内部では必要ですが、クライアントは欧米文化ではありません。「相手の話を聞く」という姿勢はクライアントには喜ばれます。

また今のポジションはチームリーダーを助けるポジションです。世界銀行ではヒエラルキーを理解することも大事で、日本企業では普通に期待されるような、自分が前に出ようとするのではなく、経験者を立てるといった動き方が、今の仕事では重宝されています。日本では得意な方ではありませんでしたが、民間企業での経験が役に立っています。

紛争地域での気候変動案件という今の分野はとても楽しく、これからも続けて活躍していきたいと思っています。ケニアのナイロビは、アフリカの中でも生活環境が整っており過ごしやすく、またワシントンDCの勤務と違い、現地にいることでアフリカ内の出張に行きやすく、クライアントにも頻繁に会うことができています。

好きなことを追求しよう

開発を目指す人には、ぜひ大学時代に好きなことを追求してほしいと思います。社会人になってからは目標に向けて戦略的に行動してきましたが、学生時代は打算的な考えなしにフィールドで好きなことを追求し、とても楽しかったです。このフィールドでの経験があったからこそ、東京を本拠地としたJICAでの仕事も現地の状況が想像しやすかったですし、最初に好きなことをたくさんやったことが、今の経験の下地になっています。

また若い間に積極的に海外経験を積んでほしいと思います。私の場合、海外での経験と出会いが転期になり、次のステップにつながっていきました。特に、高校時代での留学をぜひお勧めしたいと思います。私は普通の日本の家庭で育ち、特に海外経験はありませんでしたが、進学したICU高校では帰国子女が多く、留学に興味を持ちました。その結果、日本にいるとなかなか経験しにくい、マイノリティになるという経験ができました。異文化の家庭でホームステイしながら1年間家族として過ごし、言葉のわからない現地校に入って現地に溶け込もうとするという経験は、何事にも代えられないもので、自分をとても成長させ、人生を豊かにしてもらいました。帰国後、周りの人からも「大人になった」と言われたほどです。YFU日本国際交流財団やAFS日本協会などのボランティア団体を通じた交換留学ならば、渡航費や滞在費を含めて1年間でも総額100万円程度(当時)と、意外とリーズナブルな価格で留学を実現することはできます。

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