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特集2011年3月15日

冨永二郎 世界銀行 独立評価グループ(IEG) 総局長補佐官~第30回 世銀スタッフの横顔インタビュー

「英語では苦労した」というスウェーデンでの中学・高校生時代から、一貫して国際経済や世界情勢への関心を抱き続けているという冨永さん。語って頂いた内容は、軽妙な語り口とは裏腹に、自分のやりたいことを追求し、様々な経験を通して築いてきたキャリアの重みを感じさせた。

Jiro Tominaga

The World Bank

大阪府藤井寺市出身。慶應義塾大学経済学部卒。1993年、旧・海外経済協力基金(現・国際協力機構:JICA)入社。1995年より、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に留学、経済学修士号取得。その後、台北にて10ヶ月の中国語研修。1997年より二年間、旧大蔵省国際局へ出向。1999年、ヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)で入行。情報通信技術(ICT)の活用を中心に公共サービスの効率化、司法改革、研究開発等に関する政策対話、融資事業、調査業務、グローバル・プログラムの運営等に従事。その他、アフリカ地域総局において、農業農村・地方開発案件にも携わる。2008年2月より、独立評価グループ(IEG)総局長補佐官。

原点はスウェーデンでの生活

中学2年生のときに、父親の仕事の関係でスウェーデンに引っ越したんです。インターナショナルスクールに入ったんですが、日本人は少なくて、クラスメイトが何を言っているのかわからないし、もちろん授業も聞きとれない。普通の日本の中学生の英語力のまま入ったので、そこから高校を卒業するまで、それなりの苦労がありました。

通っていた学校では「インターナショナル・バカロレア」というシステムを採用していたんですが、このシステムは理系と文系を両方履修しなくてはいけない非常にバランスのとれたものでした。日本語をひとつの科目として履修できたのも僕にとって大変意味がありましたね。三島由紀夫や大江健三郎、大岡昇平、加藤周一、芭蕉、徒然草など、幅広く日本文学に触れることができました。日本や日本語について、色々な文化と比べながらある程度の距離を持って考えることができたと思います。帰国子女ですが日本語には自信がありますよ。

スウェーデンでの学校生活は、世銀とよく似て多国籍環境だったので、「日本はどうあるべきか」という広い意味での問題意識を自然と持つようになりました。また、国際金融取引が飛躍的に伸びている時期だったこともあって、話題を集めていたウォールストリートなどにも興味を持ち、大学では経済を勉強したい、と考えるようになったんです。

「やりたい仕事」を考えてパブリック・セクターへ

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国外の大学も考えましたが、最終的に慶應義塾大学の経済学部に進学しました。世相としては景気が好調で華やかな時期で、将来に関してはすごく楽観的だったことを覚えています。自分の生活はそんなことなかったんですけど。もともとは国際金融や為替に興味を持っていたのですが、勉強していくうちに経済成長論に対する興味が出てきました。

就職活動は銀行や商社も考えたんですが、自分の関心のある政策論や国際マクロ経済などに関する仕事をするには、パブリック・セクターしかないと思うようになり、最終的には旧・海外経済協力基金(OECF、現・国際協力機構:JICA)に入社を決めました。まだこの頃は「開発」や「貧困」といった課題より理論としての「経済成長」への興味が強かったですね。入社してみて、結果的にそういった仕事が途上国に関連するケースが多かったので、自分の意識も少しずつ変化していったのかもしれません。

ロンドンと台湾での留学生活

OECFではインドとネパールの円借款について、特に電力セクターの仕事を担当しました。当時、ネパールに世界銀行との協調融資の「アルンIII」というダムのプロジェクトがあったんですが、ネパール側の財政負担に対する懸念だとか、環境への悪影響といったことが理由で大きな論争を巻き起こしたプロジェクトだったんです。結局途中で世銀側は手を引いてしまったんですが、自分にとってはとても印象深いプロジェクトでした。ヘリコプターで現地視察に行ったりしたことも思い出します。

働き始めて2年半が経った頃、社内制度を利用してロンドンのロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(London School of Economics and Political Science:LSE)に留学。とはいえ、「可能なら自分で奨学金を取って行くように」ということで、「英国外務省チーブニング奨学金」で行かせてもらったんです。当時は民活プロジェクトの可能性が大きく取り上げられているころだったんですが、相変わらず公的機関の側から見た政策に興味があり、書いた論文は「脱税の経済学」について。脱税する側の捕まるリスクと得られる利益、また国税局にとっての摘発にかかる経費と得られる利益をモデル化して比較したり、色々な脱税の方法、脱税と節税の違いといったようなことを取り上げました。

そんなある日、深夜に東京の本部から電話があり、中国語語学留学を打診されました。驚きましたけど、いい機会だとも思いました。留学先としては台湾を選び、約1年間語学学校に通ったんですが、普段は出会えないような人たちと親しくなれたことが大きな収穫でした。銀行や商社、都市銀行関係の人たち、台湾の長老派(プレスピタリアン)の牧師さんとも学校が終わったあともよく一緒に食事をしたり、話したりしていました。今のところ仕事で中国語を使うチャンスはまだないんですが、せっかく学んだ語学ですし、ブラッシュアップしてこれから仕事でも使う機会が増えたらいいなと思っています。

大蔵省への出向を経て世界銀行へ

その後2年ほど大蔵省に出向したんですが、籍を置いていた国際局というところは世界銀行の担当局でもあり、世界銀行がいったいどういう組織で、どんな仕事をしているかといったことを知るいい機会になりました。大蔵省で働き始めたのが1997年の夏だったんですが、ちょうどこの頃アジア通貨危機が起こって、タイやインドネシア、韓国が次々と被害を受けました。そういうダイナミックな時期に、G7各国や国際機関の動きを間近に見ることができたのは非常に興味深い経験でした。

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途上国援助に対する興味があって経済に関わる仕事をしている以上、世界銀行という組織は以前から気になる存在ではあったんです。ただ、雲の上というイメージが強く、実際にそこで自分が仕事をするというところまでなかなか思いが至らなかったのですが、業務上世銀と日常的にやりとりをするようになったことでより近い存在になり、興味が深まりました。先輩でヤング・プロフェッショナル・プログラム(YPP)を利用して世界銀行に入られた方もいらっしゃったので、自分も応募してみて、幸い合格することができました。

ヤング・プロフェッショナル・プログラムでの18か月

当時のYPPでは、目安として18か月で2〜3カ所の部署を回るというシステムだったんですが、最初に配属となったのは信託基金を管理している部署。日本との関係も大きい部署だったので、土地勘はありました。ここでは、東アジアの経済危機で被害を受けた社会的弱者を助けることを目的に「日本社会開発基金(JSDF)」を立ち上げました。これは今では数ある世銀の信託基金プログラムの中でもメジャーなもののひとつとなっています。政府組織を相手にした大きな融資等のサポートからは漏れてしまうような人たちを、どう救っていくかを目的としたプログラムです。また、信託基金関連の情報が当時はほとんど公開されていなかったので、積極的に情報公開をする枠組みを考えたりしました。

次に担当したのは、アフリカ地域総局の農業開発に関する仕事です。ルワンダの農村開発支援プログラムの準備がメインの仕事で、主にそのプログラムのモニタリングと評価のシステム作りを担当しました。YPPの期間が終わると、いわゆる正規ポジションを探すわけですが、その年は大きな組織改革が実施されていて、なかなか大変でした。全然知らないセクター担当マネージャーや局長などにメールを何通も出した記憶があります。

当時は、インターネットによるビジネス促進が脚光を浴び始めた時代でもあり、今後の公共セクターの開発を考える上でも情報通信技術の活用は避けて通れない課題であると認識され始めたころで、面白そうな分野だなと思っていました。当時のウォルフェンソン総裁が情報通信技術を使ったイニシアティブ、開発ゲートウェイ(Development Gateway)を立ち上げたのですが、その活動を実施・運営する仕事につきました。今まで全く関与したことがない分野ではあったんですが、今後の公共セクターのガバナンスやアカウンタビリティーを考える上での可能性を感じました。

情報通信技術を扱う部署から独立評価グループへ

部署では主に、情報通信技術の開発への活用に関するリサーチ&トレーニングネットワークを途上国と一緒に進めるプログラムのマネジメントをしていました。ただし開発ゲートウェイは、立ち上げて3年程度経ったら世銀からスピンアウトさせることになっていたので、活動を軌道にのせ成功を見届けた後はまた違う部署へ。「電子政府」という考え方がメジャーになり、世銀の案件の中でもコンピュータやシステムを入れることで、効率化や透明性を上げようといった案件が増え、それをサポートする部署ができ、そこでカザフスタンやインドのプロジェクト形成の仕事をしました。3か月半ほどデリー事務所にも長期出張に行って、デリー事務所のチームを率いていたのですが非常に面白い経験でした。現地で直接、政府側の担当者と日常の業務をこなしている方が仕事をしているという実感が湧きますし、自分でもきちんと状況を把握して判断を下しているという安心感がありました。クライアント側の見方に影響されすぎないように注意する必要はありますが、仕事自体はフィールドにいたほうが絶対に楽しいですね。

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その後は、ヨーロッパ・中央アジア地域総局で、特に司法改革関連のプロジェクトの仕事を中心に取り組みました。旧共産圏のシステムから、新たに三権分立を基本とした体制で、どのように司法の独立性と国民へのアカウンタビリティーを確保するかという興味深い課題があるわけですが、裁判の結果をインターネットで告知して汚職削減や透明性の向上をはかったり、業務のオンライン化で裁判関連業務の効率化をはかったりという具合のプロジェクトが多かったです。

そして現在籍を置いている独立評価グループ(IEG)に移りました。世界銀行グループのすべての案件と活動を、独立した立場から評価している組織です。基本的には、国に対する支援やセクター、テーマ、個別プロジェクトのひとつひとつについて、その効果があったかどうかを調査して評価し、理事会に報告しています。とはいえ、組織としては世界銀行グループの中に組み込まれているので、独立性が本当にあるのか、という声があることも事実ですが、例えば「総局長の人事評価は世銀グループ総裁ではなくて理事会の担当委員会の議長が行う」、「理事会のみが総局長を罷免することができる」など、制度的に独立性を保つように最大限配慮されているんです。厳しい評価を下すことで、感情を害されることもあり、うまくいっていないことを「うまくいっていない」と指摘するのは簡単なようで難しいと同時に、とても重要なことです。こういうシステムを持っていること自体に、世銀グループの強さがあるのではないかと思います。

先日ウォールストリートジャーナルに、世界銀行の経済危機への対応に対して、我々が出した評価に関する記事が載りました。いつもは事務局から独立して批判的な独立評価グループが、今回はポジティブな評価を下したというふうに書かれていましたが、実はこれは私たちにとっては画期的な出来事でした。というのも、2007年に現在のゼーリック総裁が就任した際、ウォールストリートジャーナルは新総裁がやるべき改革のひとつとして、独立と謳っていながら実際は独立などしていない、独立評価グループを潰すべきだという記事を書いているからです。このように、開発援助の成果については全体的に関心が高まっていることもあり、私たちがやっている仕事は非常に意義が高いと思っているので、楽しんでやっています。

「あなたのやりたいことは、何ですか?」

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若い人たちに言いたいのは「志を持つべき」ということ。自分のやりたいことと、自分がどこで働くかの2つを足した答えは必ずしもひとつではありません。「どこで働くか」というのは、目的ではなく手段であるべき。開発をやりたいのであれば、働く場所として世界銀行以外にもいろいろな組織が考えられるはずです。キャリアを積む上で重要なのは、自分がやりたいことに対してどういうステップを踏んでいくのかということ。「やりたいことは何?」と聞かれたときに、しっかりとした答えを持つことが大事なのだと思います。

もうひとつ必要だと思うのは、柔軟な頭でしょうか。ノーベル化学賞を取られた根岸さんの言葉を新聞で読んだんですが、CO2を削減するために経済活動を縮小するのはナンセンス、どうすればCO2をより効果的に使えるかを考えるべきという内容で、印象に残っています。進路やキャリアを考える上でも、発想の転換や違う視点でものを見られるというのは大きな武器になります。色々な世代や見方の違う人の話を偏見なしに受け入れて、一方で自分の意見をきちんと作れる人は、強いですね。自分を持つことは重要ですが、独りよがりにならないことが大切だと思います。これからの皆さんの頑張りに、期待しています。

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