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愛知用水公団 愛知用水事業分 ~ 日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト

地元住民の熱意が実現させた用水事業


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1961年9月30日 待ちに待った通水の日(写真提供:独立行政法人水資源機構)
日本は1952年8月に世界銀行に加盟し、第二次世界大戦の被害から復興するために、世銀から多額の資金の借入れを行いました。 1957年、長年干ばつや水不足に苦しんでいた愛知県知多半島で農業、産業、生活のために安定した水資源を供給しようと、水力発電と水を供給する愛知用水プロジェクトが日本政府と世銀の協定によって開始されました。 このプロジェクトは、木曽川上流に牧尾ダムを建設し、農業開発や工業の発展には不可欠な上下水や工業用水を供給することを目的としていました。愛知池、松野池、三好池等の溜池、岐阜県の 木曽川から知多半島南端に至る112kmの幹線水路と、幹線水路から分岐して水を供給する1000kmもの支線水路の全ての建設が、わずか5年で完成しました。

愛知用水の建設を求める運動は、60年以上前、知多の農民・久野庄太郎さんと農業学校教諭の浜島辰雄さんのアイデアをもとに始まりました。 久野さんは1947年(昭和22年)の大干ばつを契機に、木曽川から知多半島に水を引くことを思い立ち、農村同志会などの農業団体に働きかけ、用水路建設のための運動を展開しました。 かねてより同じ構想を描いていた浜島さんは、新聞記事でこの事を知り、すぐに久野さんのもとに駆けつけました。意気投合した二人は早速現地調査を始め、愛知用水概要図(写真参照)を作成しました。

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愛知用水概念図を背景に写真に納まる、有馬良行・世界銀行財務局駐日代表(左) と浜島辰雄さん
その後も、地元農民や市町村、行政に対し愛知用水建設の必要性を訴え続け、1948年(昭和23年)、農林水産省(開拓局)に陳情した浜島さんと久野さんは、愛知用水事業には最新の建設技術や、国内調達が難しい膨大な費用が必要だと知りました。幸いなことに、用水建設運動の支援者であった当時の森信蔵半田市長は戦前、米国で記者経験があり英語が堪能でした。当時の吉田茂総理の協力によって1950年、米国視察団長として渡米した際に世界銀行・ガーナー副総裁との面談が実現し、愛知用水の趣旨と理想を記した資料を手渡し、世銀貸出を申し入れたのです。その後数回に渡る世銀の現地視察や調査が行われ、1957年、ついに愛知用水プロジェクトのために700万米ドルの貸出と技術提供の貸出協定が調印されました。

用水建設プロジェクト開始前の日本の食糧(主に米、魚、野菜)自給率は80パーセントで、不足分は輸入によって賄われていました。 1957年までの人口は9千万人で、年間550万トンもの食料が輸入され、政府負担額は6億米ドル相当に及びました。

1965年までに人口は1億人に達すると予想され、日本の食料生産量が増加しない限り、食糧不足は深刻化すると懸念されました。 自給率をさらに上げなければ近い将来、食料不足に見舞われる――生産地域への潤沢な水資源確保は重要課題でした。

愛知用水公団の設立や世銀からの貸出を含む各種資金により、知多半島の農業生産量は予想以上に増加しました。 愛知用水建設後約50余年経った今、愛知用水は農地の開拓だけでなく、温室栽培や果樹園、家畜業なども可能にし、地域の発展に不可欠な用水となりました。この地域の農業生産高は1963年当時、255.7億円規模でしたが、1999年には708.5億円に達しています。

また、名古屋に近い76ヶ所もの鉄鋼業や化学業、その他の工場への工業用水も供給されました。知多半島における工業生産は1963年当時、総生産額ベースで3259億円規模だったものが、1999年には3兆8650億円まで拡大しました。

2011年12月、世界銀行東京事務所と独立行政法人水資源機構(JWA)は、通水50周年を迎えた愛知用水をテーマにしたパネル展を開催しました。

 

プロジェクトデータ

調印日:1957年8月9日
受益企業:愛知用水公団
対象事業:愛知用水事業分
貸出額:700万米ドル