Taisei Matsuki
Taisei Matsuki
後編
(インタビュー前編はこちら)
2023年にシンガポールに異動し、現在は東アジア・太平洋地域総局環境グローバル部門の上級気候変動専門官として、東南アジア各国を飛び回りながら業務を行っています。
日々の業務の特徴の一つは、非常に多様なステークホルダーとの連携が常に伴う点です。借入国の複数の政府担当者(財務省、環境省、エネルギー省、工業省など)との協議を重ねつつ、同時に世界銀行内の国別チームや関連グローバル部門との調整も欠かせません。さらに、アジア開発銀行やUNDPなどの他の開発機関、民間セクター、そして国内外の研究機関とも緊密に連携しながら、根拠・実証に基づいた政策提言を行うことが求められます。
シンガポールは、東南アジア各国へのアクセスが極めて良く、各国の首都にほぼ直行便で数時間以内に移動できるので、各国政府との対面での協議や現地調査にも機動的に対応できるのが大きな強みです。シンガポール自体がASEAN地域における金融・政策のハブとしての機能を持ち、地域全体の気候変動政策の動向をいち早く把握できるという利点もあります。
こうした業務の中で、近年特に注目しているのが日本とのパートナーシップの深化です。日本は官民一体となって気候変動政策に積極的に取り組んでおり、対外的にはアジア・ゼロエミッション・コミュニティ(AZEC)イニシアティブを通じてアジア各国の脱炭素化を支援するとともに、2026年4月からはGX―ETSと呼ばれる国内排出権取引制度も本格的に開始しました。こうした日本の政策的な動きは、制度設計の実例という意味でも、また国際カーボンマーケットの発展への貢献という意味でも、途上国のカーボンプライシング政策の形成にとって大変参考になるものです。世界銀行としても、日本のこうした取り組みとの連携・協力をさらに深めていくことを視野に入れており、私自身もその橋渡し役の一端を担えればと考えております。
私の業務はインフラ整備や農業開発とは異なり、カーボンプライシング・マーケット関連政策の実現や法制度整備を通じて世の中の仕組みや流れを変えていく仕事です。道路が開通した、橋が架かった、灌漑設備が整って農村の生活が変わった、といった目に見える成果はありません。私たちの仕事の成果は法律の条文の中に、あるいは政府の政策文書の中に刻まれるものです。地味に映るかもしれませんが、各国で関連法案が成立し、カーボンプライシング制度が実際に動き始めると、温室効果ガスの排出削減という「目に見えない変化」が社会全体に広がっていきます。制度や仕組みが変わることで社会全体に及ぶ影響は非常に広く、長く続くものだと信じており、これが仕事の醍醐味でもあります。
一方で、この仕事ならではのチャレンジも少なくありません。気候変動対策の効果は即効性がなく、その恩恵は将来世代に帰するものである一方、コストは今を生きる人々や企業が負担しなければなりません。そのため、気候変動政策の意義に対して懐疑的な見方をされる方や、この課題に踏み込むことに難しさを感じている政府関係者や産業界の方々に出会うことも、決して珍しくはありません。
そうした粘り強い対話と、実証的な研究・分析の積み重ねが実を結ぶ瞬間の喜びは格別です。ベトナムでの国内排出権取引市場の導入を可能にする環境保護法の改正でも、何年もかけて各省庁との協議を重ね、法律の条文一つ一つについて議論を積み上げてきた末に、ついに法改正が成立したと聞いた時の達成感は、言葉では言い表せないものがありました。
また今も、マレーシアやタイで気候変動法案の閣議決定が実現し、議会上程の準備が進むのを大変感慨深く見守っています。当初は「時期尚早ではないか」「産業界の理解が得られない」といった声が少なくなかったのですが、粘り強い対話と分析の蓄積を通じて、各国政府が自らの意思で法制度の整備に踏み出すところまで来ています。カーボンプライシングという「目に見えない仕組み」が、各国の法律として社会に根付いていく瞬間に立ち会えることは、この仕事をしていて本当によかったと思える経験です。
同僚や自分の国籍を意識することはそれほど多くなく、その人がどういう人物で、何を大切にしていて、どういう働き方をするのか、ということの方がずっと重要だと感じています。日本人でも本当に多様な方がいらっしゃいます。一方で、世界銀行の同僚や相手国政府の方々の前では、自分が意識するかどうかにかかわらず、相手は私を「日本人の松木」として見るため、彼らが日本人に対して抱くイメージが、良くも悪くも自分への第一印象に影響することは避けられません。
そう考えると、「細やかさ、礼節、粘り強さ、勤勉、律儀、時間厳守、合意形成を重んじる姿勢」といった、先人たちが長年かけて築いてきた日本人へのポジティブなイメージは、本当にありがたいものだと思っています。こうした特質への信頼感は、国際的な交渉の場においても、初対面の相手との信頼関係を比較的早く築くことを助けてくれることが多いです。もちろん、最終的には個人としての実力と誠実さで勝負するのですが、その入り口を少し広げてもらえるというのは、やはり小さくない強みだと感じています。
特に東南アジアでは、それに加えてもう一つの好意的な先入観、つまり「同じアジア人として、自分たちの政治・社会・文化的な背景をより深く理解してくれるはずだ」という期待感が働き、信頼を寄せていただけることがあります。カーボンプライシングという、各国の政治経済・産業構造と深く絡み合う政策テーマを扱う上では、この「文化的な近さ」が、相手国の担当者と率直な対話をするための土台になっていると感じる場面が少なくありません。
また私自身の強みを挙げるとすれば、まず一つは、日本の政府系機関での長年の実務経験を通じて身についたプロジェクト遂行能力、つまり設定した目標の実現に向けて、与えられた時間・予算・人的リソースの制約の中で、着実に成果を出していく力があると思います。国際機関の仕事は自由度が高い反面、自律的に優先順位をつけ、複数のステークホルダーを束ねながら前に進めていく力が求められます。日本での実務経験がその基盤になっています。
最後に、新しい知識や経験を学ぶことを純粋に楽しいと思える気持ちが、自分の中でずっと続いていることも、大切な強みではないかと思っています。カーボンプライシングという分野は、経済学から法律、工学、データサイエンスに至るまで、常に新しい知識のアップデートが求められる分野です。それを「大変だ」と感じるよりも「面白い」と感じられる気質が、この仕事を長く続けてこられた一つの理由なのかもしれません。
気候変動と開発の交差点において、より大きなインパクトを生み出していくことが、今後の目標です。
東南アジア諸国における気候変動政策の動きは、ここ数年で急速に加速し、今まさに重要な局面にいるという実感があります。今後はこれまで積み上げてきた経験をさらに深化・拡大させながら、各国の国内排出権取引市場(ETS)、炭素税、カーボンクレジット制度、そして国際炭素市場への参画支援といった分野における専門的識見をさらに磨いていきたいと考えています。各国が自国の政治経済的文脈の中で実効性のある制度を設計・運用できるよう、より精度の高い支援を提供していくことが、当面の具体的な目標です。
また今後は、次世代の専門家の育成にも貢献していきたいと思っています。私自身のキャリアも、様々な方々からのアドバイスや機会があってこそでした。今度は自分が次の世代に対してその役割を果たしていきたいという思いが、年を重ねるごとに強くなっています。メンタリングや知識共有を通じて、次世代がこの分野でより大きなインパクトを生み出せるよう、積極的に関わっていきたいです。
開発の世界を目指す上で、最初から完璧な専門家である必要はまったくありません。私自身、他機関で15年間実務を積んだ後に世界銀行に入行しました。
そのうえで皆さんにお伝えしたいのは、専門性と柔軟性の両立が大切ということです。学び続けることは大前提として、実務を通じて磨かれる「信頼関係の築き方」「ステークホルダーとの調整力」「相手国の現実に根ざした感覚」、そして何より、クライアントが本当に必要としているものを深く理解し、誠実に応えようとする姿勢も重要です。机上の論理だけでは政策はなかなか動きません。一つひとつの実務を丁寧にこなしてこそ、知識は「使える力」となります。
次に、問題解決を仕事の中心に置いてほしいということです。クライアントである各国政府や関係機関が抱える課題は、一つとして同じものはありません。相手のニーズを正確に把握し、現実の制約の中で何が最善かを粘り強く考え抜くことが大切です。ベトナムの環境保護法改正なども、各国の政治経済状況をしっかり理解した上で、クライアントとともに答えを探り続けた積み重ねの結果です。
最後に、私の長男が幼い頃、「パパはウルトラマンみたいな仕事をしているんだね」と言ってくれたことがあります。地球環境と人々の暮らしを守る仕事を、子どもにそう表現してもらえたことが、今でも忘れられません。情熱と真摯な姿勢を持ちながら、着実に自分のキャリアを育てていけば、いつか皆さんにとっての「ウルトラマンのような仕事」につながっていくはずです。
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