Taisei Matsuki
Taisei Matsuki
東京大学文科二類に入学した当初は、漠然と「経済学を学べば、社会の役に立てるのではないか」と考えて、経済学部に進学するつもりでいました。ところが、前期課程の教養学部にいる間に文理の枠を超えた幅広い学問に触れ、また様々なバックグラウンドを持つ学生や先生方と交流するうちに、自分の関心が少しずつ「国際社会」に向いていきました。
このため後期課程は国際関係論分科に進み、国際政治、国際法、国際経済学といった基本分野に加え、国際機構論や開発経済論といった、より応用的でグローバルな課題に直結する学問にも触れることになりました。特に開発経済論では、なぜ世界には豊かな国と貧しい国が存在するのか、その構造的な要因は何か、そしてそれをどう変えていけるのか、といった問いに初めて体系的に向き合うことができ、それが自分にとって非常に新鮮で、かつ大きな知的刺激になりました。明確なビジョンがあったわけではありませんが、国際関係論分科に進んだことが、結果として開発経済の世界への扉を開くことになり、この選択が後のキャリアの出発点になりました。
その経験が呼び水となって次に参加した、ネパール研修旅行で目の当たりにした光景は、今でも忘れることができません。社会格差是正の必要性を説いて回るカトマンドゥの大学生たち。破傷風で命を落としていく寒村の子どもたち。そして、トウモロコシの実は市場に売って生活の糧とし、その芯を砕いて水に浸したものを主食にする農民の方々。理屈ではなく、肌で感じた経験が、自分の中で何かを大きく変えたように思います。
こうした経験をする中で、当時のバブル時代の日本社会の浮かれた雰囲気に対する一種の嫌気も相まって、世界の平和や持続的な成長に何か自分も貢献できないかという思いが、次第に強くなっていきました。ただ、まだ具体的な方向性が定まっておらず、防衛庁(当時)に進んで安全保障や国際平和貢献の分野で活躍するべきか、それとも開発協力の観点から旧海外経済協力基金に進むべきか、しばらく真剣に悩みました。
その答えを出すきっかけを与えてくださったのが、当時教養学部の国際関係論ゼミでお世話になっていた小和田恒先生でした。先生は当時、外務審議官をされながら東大で教鞭をとっておられ、当時はまだ「国際平和協力法(PKO法)」が公布される数年前でもあり、「現役でバリバリ活動したいのであれば、経済協力に進む方が現実的だ」というアドバイスをいただきました。その一言が、開発経済を自分のキャリアの軸に据えることへの、最後のひと押しになりました。今振り返ると、あの時先生にご相談できたことは、本当に幸運でした。
こうした経緯で、円借款業務を主な業務とする海外経済協力基金に就職しました。総務部に配属され、世界銀行、アジア開発銀行、米州開発銀行、アフリカ開発銀行といった国際機関や、欧米の援助機関との援助調整・協調融資の促進業務に携わりました。
1990年代初頭は、日本が巨額の貿易黒字を抱えていた時代で、資金還流措置のもとで途上国向け円借款の供与額を増やすことが求められていた一方、いわゆる「ひも付き援助」からの脱却のため、優良な円借款の案件形成能力を高めることも課題でした。社会人になったばかりにもかかわらず、国際機関や援助機関の幹部職員の方々が集まる会議に参加する機会に恵まれたことは大変な刺激になり、この頃に国際機関に勤めてみたいという憧れが芽生えました。
その後イエール大学大学院に研修派遣で留学しました。開発経済学の権威であるグスタフ・ラニス教授をはじめとする先生方の授業を受け、先生方がご自身の経済理論をどのようにワシントンDCの政策に反映させていくか、ホワイトハウスや議会、連邦政府機関との協議のエピソードを交えながらお話しいただいたことは、学術的な開発理論と実務の実践が結びついていることを実感させてくれた最初の機会でもありました。
帰国後は、スリランカ、バングラデシュ、ミャンマー向けの円借款業務を担当しました。日本政府の意思決定メカニズムや国会議員・マスコミの方々からの照会への対応、相手国にとって有意義な案件の形成の仕方、進捗が滞っている案件の問題への対処など、実務の基礎を幅広く学びました。
1990年代半ばには、ワシントン駐在事務所に配属となりました。世界銀行、IMF、米州開発銀行、USAIDの業務と日本の円借款業務の連携に携わる中で、「サハラ以南アフリカ債務困窮低所得国に対する特別援助プログラム(SPA)」への協調融資を通じて、当該国のマクロ経済・財政政策の改革実施と引き換えに対外収支支援を行う業務に関わりました。世界銀行やIMFのアフリカ諸国を担当するエコノミストたちと、支援の際の条件となりえる政策内容や当該国の財政・対外収支について協議しながら、日本の存在感を高めつつ円借款供与額の積算をするという、当時の私にとっては大変やりがいのある仕事でした。ここでは、欧米ドナーとの連携交渉の仕方や、当該国にとって実施可能な政策プログラム・ロードマップの形成の仕方も学びました。世界銀行の業務の流れや意思決定メカニズムについて、身をもって学ぶことができたことも、大変ありがたい経験でした。
海外経済協力基金では、人事面接の際に国際機関への出向の希望を入社以来毎年出していましたが、2004年の春に国際協力銀行の人事部から呼ばれ、世界銀行にできたばかりのカーボンファイナンスユニットへの出向を命じられ、2005年に入行しました。
当時は2005年の京都議定書発効を目前に控え、カーボンファイナンス(炭素排出削減を目的とした金融の仕組み)を巡る動きが急速に活発化していた時期でした。JBICおよび政府系金融機関、さらに多数の民間日本企業によるJGRF(日本温室効果ガス削減基金)が設立され、またJBICはすでに世界銀行炭素基金(PCF)にも出資しており、私への出向命令はそのPCFを運営するチーム(カーボンファイナンスユニット)へのものでした。
ただ、カーボンファイナンスは自分にとってまったく未知の分野でしたから、辞令には戸惑いました。人事部の方からは、円借款開発業務と旧輸出入銀行業務で積んできた知識と経験が、未知のカーボンファイナンス業務の習得にも役立つだろう、との説明を受けたものの、その場では漠然と納得するだけでした。しかし今では、異なる業務経験の組み合わせの中に可能性を見出してくださった当時の人事部の上司には、先見の明があったなと、心から思っています。
世界銀行への出向期間が終了する2008年には派遣元のJBICと世界銀行を退職し、英国ロンドンに本部を置く欧州復興開発銀行(EBRD)に転職しました。EBRDでは、旧ソ連構成国や中東欧のカーボンファイナンス案件の形成およびカーボンクレジット取引業務に携わり、カーボンファイナンスの実務をさらに深めることができました。その後、2010年にカーボンファイナンスユニットの空席公募を通じて、世界銀行に再入行しました。
自分自身の経緯を振り返って思うことは、キャリアというのは必ずしも一本道ではないということ、そして、それぞれの職場で積んだ実務経験が、一見すると関係のなさそうな次の仕事に意外なほど活きてくるということです。これは今後世界銀行への入行をお考えの方にも、ぜひお伝えしたいことの一つです。
そのためには、目の前の業務が自分の組織にとって、あるいは日本国にとってどのような意味を持つのかという視点を常に持ちながら仕事に携わることが重要です。また、各業務に関連する実務知識(金融法務、会計関連実務、国際経済、担当国のマクロ経済やセクター動向など)を絶えず高めていく努力も欠かせません。近年、世界銀行では豊富な技術的識見と実務経験を持つ職員へのニーズが一層高まっていると感じています。自分の専門的識見と実務経験を、少なくとも英語で明確に他の人々に伝えられる能力を身につけておくことが、一つの重要な準備になるのではないかと思います。
インタビュー後編に続く。