Shinya Murakami
Shinya Murakami
私の親は転勤族で、小学校は千葉県、中高時代は石川県の金沢で育ちましたが、中学生の頃から漠然と「将来は海外で働きたい」と思うようになりました。大学では政治学を学びましたが、その頃はまだ開発に特別な関心はありませんでした。
当時はバックパッキングが流行っており、私もアルバイトで貯めたお金を使ってインドや東南アジア、南米などを長期休暇の度に一人旅をしていました。次はアフリカに行ってみたいと思っていたものの、資金面のハードルが高く悩んでいたところ、デンマークのNGOのボランティアプログラムを知りました。3カ月のデンマーク研修後、アフリカで8カ月間活動するというもので、アフリカへの旅費や滞在費もNGOが負担してくれることを知り、1996年、大学3年の時に1年間休学して参加しました。派遣先はアフリカ南西部のアンゴラ共和国で、保健衛生教育を行うボランティア活動に加わりました。
それでもこの経験は大きな転機でした。活動を通して、開発の現場で本当に役に立つには専門性が必要だと痛感し、まずは確固とした専門分野を持とうと決意しました。この時から、国際協力の道に進みたいという思いが明確になり、将来のキャリアの方向性を思い描き始めました。
では何を専門にしようかと考えた時に、最も身近だったのがITでした。父がエンジニアだった影響で、幼いころからコンピューターに親しみ、自分でゲームを作って遊ぶような子どもでした。アンゴラから帰国した1997年頃はインターネットバブルの全盛期で、日本でも「IT」という言葉が認知されだした頃だったので、この流れが5〜10年後には途上国にも波及し、やがて国際開発の世界にも重要になるのではないかと感じ、IT、特にネットワーク分野を自分の専門にしようと決めました。
また同時に、国際開発分野で仕事をするには修士号が必要と聞いていたため、ミクロネシア滞在中から大学院への留学準備を始めました。2005年、協力隊の任期を終えた直後に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で「ITと開発」を勉強するため留学し、組織文化が途上国におけるITプロジェクトの成否にどのように影響するかというトピックで修士論文を執筆しました。
その後日本に帰国し、国連JPO試験を受けたのですが、これはうまくいきませんでした。ちょうど第一子の誕生を控えていたこともあり、地元広島のIT企業に就職して2年ほど勤務しました。地方自治体や地元中小企業のITシステムを構築したりサポートする仕事で、地元の顧客に対し親身にITに関する相談に乗り、丁寧なサポート対応を提供したことは、今の世界銀行での業務にも役立っています。また、広島備後地域では初となる震災対応のデータセンター構築プロジェクトを担当し、ITだけではなく、電気や空調、災害対策設備などの知識経験を得ることができ、現在の業務に活かせています。
しかしやはり海外に行きたい、国際開発に関わる仕事をしたいという気持ちが強くなり、JICAのジュニア専門員制度を利用して転職しました。最初の1年はIT関連のプロジェクトを担当する部署に配属され、JICA本部で複数のITプロジェクトサイクル全体を一通り経験しました。その後、実際に自分でプロジェクト形成に関わったフィジー共和国の南太平洋大学への技術協力プロジェクトに長期専門家として赴任しました。他の専門家とともに、12カ国が参加する南太平洋大学のリモートキャンパスの遠隔教育システムを改善し、海底光ファイバーが敷設されていない国や離島の学生も、自国で高等教育を受けられる環境を整備しました。また日本の無償資金協力で設立された南太平洋大学 情報通信技術センターを拠点に、国際認定を受けたクラウドコンピューティングの学士号コースを開設、スマートフォンを活用したモバイルラーニング環境の支援、ITIL準拠のITサービス管理導入など、2010年当時では少し先を見据えた支援をすることで、南太平洋大学のスタッフがプロジェクト終了後も持続的に活動を継続できるようにしました。フィジーには3年間滞在し、途中から家族も現地に移住して一緒に暮らしました。
プロジェクト終了後は、IT企業に戻るか国際開発の道に残るか悩みました。国連やIT企業などにも応募する中で、登録していたJICA PARTNERのメーリングリストに世界銀行東京事務所のIT職員募集の案内を見つけ、思い切って応募したところ、書類選考、複数の面接試験を経て入行が決まりました。
入行後は、世界銀行の情報システムとITサービス全般を運用管理する、情報テクノロジー管理(ITS)部門に所属しています。東京事務所で10年間勤務し、2024年の5月にパリ事務所へ異動しました。世界銀行では辞令で異動が決まることはなく、たまたまパリ事務所の拡張に伴うIT職員の公募を見つけ、自ら応募しました。世界銀行外部にも一般公募されていたポストですので、世界銀行外から応募する人材を含めた選考でした。書類選考と複数の面接を経て採用が決まり、挑戦したいという思いと、子どもの留学希望が重なったことから、家族の賛同を得て一家でフランスへの移住を決めました。
今の業務は世界銀行グループ職員へのITサポートと、事務所のITインフラや各種ITサービスの導入支援と運営管理です。Microsoftオフィスアプリの使い方やPCや電話の障害対応、会議室でのオンライン会議の接続サポートから大ホールでの国際会議の技術サポート、サーバールーム管理からIT資産管理まで多岐にわたります。
入行するまで働いていた企業や組織では上司や同僚と机を並べてチームで仕事をするのが普通の環境でした。世界銀行では上司や同僚が世界各地にいて、基本的にはビデオ会議で指示を受けたり相談したりし、その後は自分の判断で業務を進めるというスタイルで、このような働き方は、私にとってとても新鮮でした。
南太平洋大学の仕事では、自分の取組みが途上国の課題解決に直接役立っているという実感がありました。今の業務はプロジェクトに直接関わることはありませんが、途上国支援に携わる職員が円滑に業務を進められるよう支えることで、間接的に途上国の問題解決に役立っているのだという気概を持って取り組んでいます。
ただ、新しい技術が次々と出てくる中で、組織のあり方や管理手法も進化し続ける点は、この仕事の難しさでもあります。技術の進化に合わせて、IT職員である私たちも常に学び続けなければなりません。例えば最近では、AIツールを活用したいという要望が世界銀行内でも増えています。IT職員としても、日常のIT業務や自分がフォーカスしたい技術分野のアップデートに加え、AIについても職員へのサポートやトレーニングができるだけのスキルを積極的に学ぶ時間を確保することが必要になっています。
世界銀行でのITサポートの仕事には、広島のIT企業での経験で得た日本特有のきめ細かいサービス精神が生きています。親身になり、できる限りレスポンスよく、かつ誠実な対応を心がけています。パリITチームは日本並みの丁寧なITサポートを提供しており、「今まで受けた世界銀行のITサポートの中で一番良かった」という嬉しいコメントを頂くこともあります。
JICAに勤務していた頃は、途上国と先進国の間でIT環境に開いた大きな隔たり(デジタルデバイド)が注目され、そのギャップを埋めるため、ITに特化した途上国支援が進められていました。しかし過去10年ほどでIT技術が進化・普及し、IT支援の形も変化しました。かつては「海底光ファイバーのない島でどうやって遠隔高等教育を提供するか」が課題でしたが、今では世界銀行の支援で南太平洋大学のキャンパスがあるトンガにも海底光ファイバーが敷かれています。現在はITに特化した途上国支援は少なくなり、保健や教育など他分野のプロジェクトの一部としてIT支援が組み込まれています。つまり、どのような分野であってもITは欠かせない要素となっているということでもあります。
もしITを仕事にしたいのであれば、自分の強みの分野を持っておくのがよいと思います。流行りの技術に流されるのではなく、当然業務に必要な知識情報は勉強しつつも自分が興味、関心のある技術の知識を深めて強みを持っておく。例えば、セキュリティ分野だったら彼に聞け、ビデオ会議技術なら彼女に任せる、というようなポジションを確立できると強いと思います。
ITの仕事はどんな業界でも需要がありますが、その中で、自分のスキルや知見を活かして世界銀行のミッションである「貧困の撲滅」に貢献できることに誇りを持っています。そしてまた、私が世界銀行で勤務し続けられているのは、ひとえに目的意識と気持ちを同じにする上司、チームメンバー、事務所の同僚のサポートのおかげです。
家族は私に1年遅れて2025年に合流し、今は生活基盤を整えているところです。特に大きな変化がなければ、今後もパリに長く暮らしていくことになると思います。
振り返ると、アンゴラでの経験はとても貴重で、若い頃に実体験を通して世界を知ることができたことが、国際開発のへの関心につながりました。私が40代後半で、4人の10代の子どもたちを含めた家族全員で生活のベースを他国に移すという大きな決断をしたのも、若いうちにしかできない挑戦を子どもにも経験してほしいと思ったからです。IT部署は世界銀行の他の部署よりも人の異動が少ないため、パリ事務所の公募はまたとないチャンスでした。