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農地開発機械公団 上北根川地区開墾事業他 ~ 日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト

日本への世銀貸出、初の農業案件


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輸入機械による機械開墾

1956年、当時日本では毎年100万人のペースで人口が増加していましたが、食糧の約5分の1を輸入に依存していました。国内の食糧需要を満たし食糧不足を回避するためには、向こう10年間で食糧生産を15%増やす必要がありました。しかし、既に開墾された土地は限界まで使用されており、新たな農地を開拓する必要がありました。そこで、北海道の「根釧パイロットファーム」、「篠津泥炭地開発」、青森県の「上北パイロットファーム」の開墾事業に、世銀の貸出計430万ドルが農地開発機械公団を通じて提供されました。貸出は主に、輸入機械の購入に充てられ、近代的方法による開墾が試されました。当時の日本では大型機械を導入した農業はほとんど行われておらず、輸入機械による開墾・農地開発は画期的なものでした。

篠津地域の泥炭地開発プロジェクト(世銀貸出113万ドル)は、北海道西部の石狩川流域に広がる篠津地域泥炭地の土地改良を目指すもので、12,000haの水田化が進められました。もともと同地域の開発は、1951年に国営かんがい排水事業として始まり、当初は排水施設として篠津運河を掘削し、排水路を整備するだけの事業でした。それが世銀からの貸出を受けて1956年に篠津地域泥炭地開発事業という総合開発事業になり、1,600haを大水田地帯として開発するために、当時の210億円(その内世界銀行からの外資分は8.7億円)、20年の歳月をかけて篠津運河(用水・排水兼用施設)・排水機場・排水路の整備、かんがい施設であるダム・頭首工・揚水機場・用水路の整備、さらに農道整備、暗渠排水、客土、防風林植栽、上水道整備、開墾などが行われ1971年に完了しました。

50年代に来日した世銀調査団が想定した篠津泥炭地の開拓の目的は畜産と小麦でしたが、日本の技術者側は、日本人が求める食糧はやはり米であること、入植する農民の経験と技術は米作りにあり、米作りのためならば苦労をいとわない文化があること、彼らを支えるべき国内の技術者も、稲作分野での層が厚いことを主張しました。そして、これほど日本人が米に執着するのならやってみようという調査団側の妥協を引き出し、結果として今日、篠津に水田地帯が広がるに至った、という逸話があります。「泥炭地を牧草地にする」あるいは「泥炭地で畑作を行う」ための技術は世界銀行でも(欧米のコンサルタント会社でも)有していましたが、「泥炭地を水田化する」技術は、日本以外の国で開発・適用されたことはありませんでした。このように、欧米に存在しない技術が生まれたのです。これが、篠津泥炭地開発が「農業土木の金字塔」と言われる所以です。

根釧および上北のパイロットファーム(世銀貸出133万ドル)は、機械開墾により寒冷地にふさわしい酪農を柱とする経営計画を導入するとともに、従来は入植者の手によって行われてきた開墾作業を機械によって実施するなど、当時では画期的な試みでありその後の開拓行政に多大な影響を与えました。これを契機として開墾方法が、それまでの人力、畜力から、機械へと転換されたのです。この「根釧方式」は、その後北海道各地に広がっていきました。さらに、従来の穀物偏重から、酪農を含む適地適産方式が採られることとなりました。

根釧への入植は3期にわたって行われ、日本全国からおよそ150世帯が同地域へ移り住みました。また、オーストラリアから乳牛を輸入するため98万ドルの貸出が提供されました。当時、日本ではホルスタインが主でしたが、より濃厚なジャージー牛乳で乳製品を生産するためジャージー牛が選ばれました。根釧は新規開拓でしたが、上北のパイロットファームは既存の農地を拡大するという形で行われました。りんご栽培の盛んな青森ですが、上北パイロットファームは離農率も低く、現在も酪農が営まれています。

 

プロジェクトデータ

調印日: 1956年12月19日
受益企業:農地開発機械公団
対象事業:上北根川地区開墾事業,篠津泥炭地区開墾事業,乳牛輸入分など
貸出額:430万米ドル

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左:一日の農作業を終え家路につく家族、右:輸入機械による機械開墾